今村夏子『むらさきのスカートの女』は、2019年に芥川賞を受賞した小説です。
「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性を観察する、語り手「黄色いカーディガンの女」の視点から描かれる、不穏で静かな物語です。
私たちは「むらさきのスカートの女」であり、「黄色いカーディガンの女」でもある
読後、ふと胸に残ったのは、「私たちは本当に他人を、先入観なしに見ることができるのか?」という問いだった。
小説『むらさきのスカートの女』に登場する「黄色いカーディガンの女」は、一見して不気味で、常識外れで、関わってはいけない“他人”の象徴のように描かれる。私たちが日常生活のなかで時折すれ違う、なんとなく避けたくなる人物。関与すれば自分の生活の安定が揺らぎそうな、そういう不安定さを纏った存在だ。
対して、「むらさきのスカートの女」は最初こそ印象が悪いものの、職場で見せる真面目な働きぶりにより評価を上げ、やがてその評価が周囲の噂によって反転し、過剰に否定されていく。その振れ幅の大きさに、人が他者を評価する時の曖昧さと相対性、そして「最初の印象」への強い拘束力を感じずにはいられない。
「孤独」を対比するふたりの女
物語の核心にあるのは、ふたりの女性の「孤独」のかたちだ。
むらさきのスカートの女は、子供たちに存在を知られ、親族とつながり、リンゴを分け合いながら生活している。彼女は確かに孤独を抱えているが、周囲との接点があり、社会のなかにかろうじて居場所を持っている。
一方、黄色いカーディガンの女は、たびたび他者から「存在を忘れられる」。離婚を機に家族とは二十年も音信不通。誰とも分け合うことなく、オレンジをひとりでかじる彼女の姿は、要素だけ抜き出せば圧倒的に孤独だ。にもかかわらず、彼女からは「寂しさ」があまり伝わってこない。
それは、彼女自身が孤独を苦としていないからか。あるいは、どこか異質で「関わってはいけない」と感じさせる、その不気味さゆえに、私たちの側が“感情移入するのを拒んでいる”からなのかもしれない。
「私」と「他者」のあいだに引く線の不確かさ
作中で、むらさきのスカートの女に似ているとされる人々は、いずれも他人の目を引く存在だ。ギャグ漫画家、レジの女性、銅メダルの選手、万引きと暴力で知られる同級生——。無関心の外にある彼らと、忘れられ、空気のように扱われる黄色いカーディガンの女は、まるで対極に位置しているように見える。
しかし、私たちは日常でそうした「関わってはいけない他人」に無意識に線を引き、「見て見ぬふり」をしてやり過ごしている。そのとき、私たちは「黄色いカーディガンの女」をただの他者としてではなく、自分とは異なる“異物”として処理してしまう。
だが果たして、そう言い切れるのだろうか?
他人を「理解したつもり」になる私たちへ
黄色いカーディガンの女は、むらさきのスカートの女の内面を「分かっている」つもりで行動している。その姿は、まさに私たち自身の姿でもある。他人のことを勝手に理解した気になり、独りよがりな共感を押し付ける。それは達観でもなんでもなく、ただの傲慢さなのかもしれない。
他人との距離を自分勝手に測り、線を引いて、勝手に“上”に立つ。そうやって「関わらない」ことを選ぶのは、実は自分の心を守りたいだけではないのかとさえ思う。
結局のところ、どちらも「私」なのだ
「むらさきのスカートの女」も「黄色いカーディガンの女」も、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているわけではない。彼女たちはむしろ、私たち自身の内側にある異なる側面なのだろう。社会にうまく馴染みたい気持ちと、誰ともつながらずにいたい孤独。理解されたい欲と、理解など求めていない強がり。それらが同時に存在するのが「私たち」なのだと思う。
孤独とは何か。他者とはどこから他者なのか。自我と他者の境界は、そんなに明確な線ではないのだと、この小説は静かに問いかけてくる。
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