「美術の制度化」はいつ始まったのか――奈良の大仏と造東大寺司の考察

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最近、日本美術史の本を読み始めたのですが、読み進める中で思いがけず心に残るテーマやモチーフに出会うことが増えてきました。
せっかくなので、そうした印象に残ったことや、気になって自分で調べてみたことを、少しずつここにまとめていこうと思います。

今回は「奈良の大仏」と、それを支えた国家プロジェクトの存在。
調べていくと、仏像そのものよりも、それを成立させた“仕組み”のほうに、現代にもつながる面白さがあったのです。

国家が美術をつくる、ということ

奈良・東大寺にある盧舎那仏、いわゆる「奈良の大仏」は、高さ15メートルの巨大仏。
修学旅行などで一度は目にしたことがある人も多いと思います。

時代は8世紀。当時の日本は、疫病や天災、飢饉が相次ぎ、人々の不安はピークに達していました。
そんな中、時の天皇・聖武天皇が打ち出したのが「仏の力で国を守る(=鎮護国家)」という考え方。
仏教に国を救ってもらおうという、今でいうなら“精神的セーフティネット政策”といったところでしょうか。

そうした思いで建立を命じた、いわば国家主導の精神的プロジェクトの集大成が、この「奈良の大仏」でした。
ただ、私が本当に面白いと思ったのは、大仏そのものではありません。

それは、大仏を成立させるために国家がつくった、巨大な造像組織「造東大寺司(ぞうとうだいじし)」という仕組みです。
この組織は、「仏像をどう作るか」を組織的に管理・運営した機関でした。
そこで行われていたのは、作業の分業化──現代のプロジェクトマネジメントにも通じるような考え方だったのです。

美術が「共有可能な構造」になった瞬間

それまでの日本美術は、基本的に職人や個人技に頼るものでした。
経験と勘、あるいは信仰心に支えられた、いわば“一点もの”の世界。

しかし、造東大寺司という制度的な機構が入ったことで、美術が「個人の感性」から「共有財」へと変わっていった。
それは、日本美術におけるひとつの大きな転機だったのではないかと思います。

つまり、大仏は「完成した作品」としてよりも、そこに至るプロセスそのものが、美術の制度化=構造化のはじまりだったわけです。
単に見た目のスタイルを統一するだけでなく、特定の作り方や表現方法を体系的に整えることで、“技術の流れ”そのものがかたちになっていく。

それは後の時代でいう「流派」や「派閥」(たとえば刀工の流派や、狩野派のような画派)へとつながる文化的土壌になったのではないか、造東大寺司によるこの様式化の試みは、そうした“技術の系譜”の原形と見ることもできるのではないかと思います。

現代の「美の制度」とつながる感覚

こうして見ると、奈良の大仏というプロジェクトには、どこか現代のオリンピックや万博にも通じるところがあるように思えてきます。
どちらも、巨大な国家的プロジェクトでありながら、“美”や“理念”をかたちにする場であることは共通しています。
そしてそれらは、ひとりの表現者の手を離れて、制度や組織の中で再現・運用される「美の集合知」のような存在にもなっています。
美術が「一人で作るもの」から「多くの人で動かし、繰り返し再現できるもの」へと変化する──。
その原点に、あの巨大な仏像の背後にあった造東大寺司という組織があったのだと思うと、1300年前の出来事が、急にぐっと今に近づいてくるような気がします。

最後に

東大寺大仏殿の基本情報や公式サイト、奈良観光・宿泊の情報を載せておきます。
大仏への興味をもたれた方は、東大寺を訪れる旅を、ぜひ計画してみてはいかがでしょうか。

▼東大寺大仏殿の基本情報

項目内容
名称東大寺大仏殿
住所奈良県奈良市雑司町406-1
公式サイトhttps://www.todaiji.or.jp/

▼奈良観光・宿泊情報

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以上、有漏路でした。

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